若いころは、自分が食べることが何よりの楽しみだったかもしれません。
おいしいものを見つけて、夢中で味わう時間は、まさに生きる喜びそのものです。
仕事帰りに立ち寄った店の温かい一皿や、友人と囲む食卓のひととき。
そうした瞬間が、自分を支え、元気を与えてくれることも多かったでしょう。
けれど、歳を重ねるにつれて、その「楽しみ」の形が少しずつ変わっていきます。
自ら料理を作り、家族や友人に振る舞って、
おいしそうに食べてくれる姿を見守ることが、いつの間にか大きな喜びになる。
おいしいお店を見つけて誰かを連れて行くときも、
「相手がどう感じてくれるだろう」と想像する時間そのものが楽しくなっていくのです。
幸せは、奪い合うものではなく、巡り渡っていくものなのかもしれません。
自分が味わう喜びから、誰かに味わってもらう喜びへと、
静かに形を変えながら、少しずつ深まっていく。
そしてその過程で、人は「与えること」と「受け取ること」の間に、
やわらかな循環があることを学んでいきます。
この「循環」は、食事に限らず、あらゆる関係や出来事の中にも存在しています。
知識や経験、人への思いやり。
どれも、独り占めしてしまうより、少しずつ分け合うことで、
不思議と自分の中にも豊かさが戻ってくるように感じます。
そして、もうひとつの成熟は「手放すこと」にあるのだと思います。
何かを強く握りしめていると、それはやがて「執着」に変わってしまいます。
大切に思うあまり、守りたくなる気持ちは自然なことですが、
あまりにも強く握りしめると、手の中のものは息苦しくなってしまうのです。
一方で、信じて手を開けば、風が通り抜け、
そこに新しい出会いや、思いがけない幸せが入ってくることがあります。
手放すことは、何かを失うことではなく、
新しい何かが入ってくる余白をつくること。
その空白を怖れずに受け入れられるようになると、
人の心は、より自由に、より軽やかになっていくのかもしれません。
手放すことは、あきらめることではありません。
許すこと、信じること、そして流れに委ねること。
それは、他者や世界を信頼するということでもあります。
この「信じる力」が育っていくと、
自分自身に対しても、より優しくなれるように感じます。
成熟とは、完璧になることではなく、
自分の中にある「余白」と「流れ」を受け入れること。
そして、他者や時間を信頼しながら、
自分の手から離れていくものを、穏やかに見送れるようになること。
そのとき、人は「持つ幸せ」ではなく、「巡る幸せ」の中にいるのだと思います。
幸福は、所有することよりも、流れの中に宿るものです。
与えるほどに満ち、手放すほどに広がっていく。
その循環の中で、誰かの笑顔が生まれ、また別の誰かの希望になる。
そうして世界は、少しずつ優しく、あたたかくなっていくのではないでしょうか。