気づくと、私はいつも誰かと比べています。
同年代の友人が結婚したとき、後輩が出世したとき、
SNSで知らない誰かが楽しそうに笑っているとき。
そのたびに、胸の奥がざわついて、
「自分はまだ何も成し遂げていないのでは」と焦りを感じることがあります。
けれど、そうやって比べ続けているうちに、
私はだんだん、自分の輪郭を見失っていきました。
誰かの基準で自分を測ることに慣れてしまい、
「どうなりたいか」よりも「どう見られたいか」に
意識のほとんどを使っていた気がします。
でも、あるときふと思いました。
この世界にあるほとんどの「性質」は、
すべて何かとの関係の中で成り立っているのではないか、と。
強い・弱い、成功・失敗、美しい・醜い——
どれも、他の何かと比べて初めて形を持ちます。
たとえば、光は闇があるからこそ光として感じられるように、
「優しさ」も「厳しさ」も、それだけでは意味を持ちません。
誰かにとっての優しさは、別の誰かには甘えかもしれないし、
今日の失敗が、明日の成長の理由になることもあります。
そう考えると、「どちらが正しい」「どちらが上」などという区別も、
案外、あやふやなものなのだと感じます。
私は長い間、「揺れない自分」になりたかったのだと思います。
どんな状況でも堂々としていて、
人の評価に振り回されない、確かな“自分軸”を持つ人。
でも、そんな自分を求めるほどに、心は硬くなり、
小さな出来事にも折れやすくなっていました。
最近は少しだけ考え方を変えています。
人と比べることを少しずつ手放して、
流れの中に身を置くようにしています。
それは、あきらめではなく、「揺れてもいい」と許すことです。
風に揺れる木のように、状況に合わせて形を変えることは、
弱さではなく、生きている証なのだと思います。
人と比べることをやめると、
心の中に小さな空白が生まれます。
最初は少し不安になるけれど、
その空白には、静けさと自由が広がっていきます。
「何者かにならなければ」という焦りが薄れ、
「今の自分をどう大切に生きるか」という問いが
自然と浮かんでくるのです。
完璧でなくても、特別でなくてもいい。
今日を少し穏やかに過ごせたなら、それだけで十分です。
比べなくても、誰かの役に立とうとしなくても、
私たちはもう、誰かの世界の一部として存在しています。
人と比べる必要はありません。
比べなくても、あなたはここにいて、
ちゃんと息をして、誰かに優しさを返している。
そのことに気づけたとき、
心は少しずつ、軽く、あたたかくなっていくように思います。
【出典】アラン・ワッツ『不安の時代』 / ヘラクレイトス『断片集』 / 中村元『仏教語大辞典』 / 阿部一『やさしさの心理学』