言葉で世界を祝う —— 名を呼び、名を脱ぐ勇気

朝、コーヒーを淹れるとき。
ポットの音、豆の香り、湯気の立ちのぼる瞬間。
その一つひとつが、私たちの小さな祈りのように感じられることがあります。
誰かに聞かせるための言葉ではなく、
ただ「おはよう」と小さく口にする——
その瞬間、私たちはすでにこの世界を祝福しているのかもしれません。

古語で「言祝ぎ(ことほぎ)」とは、言葉によって祝うことを意味します。
それは、特別な出来事を称えるためだけのものではなく、
ありふれた日常の中で、存在そのものを言葉でたたえること。
「今日もここにある」という事実を、
言葉によってそっと肯定することが、
本来の「祝う」という行為なのだと思います。

村上春樹さんの小説を読むと、
そのような「静かな祝福」が随所に感じられます。
たとえば『ノルウェイの森』で主人公が「緑」という名前を呼ぶとき、
それはただの会話ではなく、
相手の存在をこの世界につなぎとめるような、深い儀式のようです。
名前を呼ぶという行為には、
相手をこの世界に確かに存在させる力があります。
「君」や「あなた」ではなく、その人の名を呼ぶ。
それは、他の誰でもない「あなた」を受け入れる行為であり、
小さな祝福のひとつなのだと思います。

しかし、一方で「名付ける」という行為には、
祝福と同時に、静かな「呪い」も潜んでいます。
名を与えることは、定義を与えることでもあります。
それは「あなたはこういう人です」と世界に宣言するようなものです。
その言葉が安心を与えることもあれば、
ときには、人をある枠の中に閉じ込めてしまうこともあります。
「優しい人」「真面目な人」「不器用な人」。
そんな言葉がいつしか“外骨格”のように固まり、
その人自身を制限してしまうことがあるのです。

名付けは、世界を愛する方法であると同時に、
世界を型にはめ、堕落させてしまうことにもなり得ます。
それは、言葉が持つ両義性です。
秩序を与えることは、美しさであると同時に、
生命の流動性を奪うことにもつながります。
だからこそ、私たちは時に、
自らが作り上げた名や型を脱ぎ捨てる必要があります。

生きるということは、何度も脱皮することです。
言葉によって形を得て、そしてまた、その形を壊す。
その繰り返しの中でしか、本当の成長はありません。
外骨格は、成長の過程で一時的に自分を守るための殻です。
けれど、そのままでは息苦しくなり、やがて限界が訪れます。
人もまた、「私はこういう人だ」「こう生きねばならない」と
自らを定義した言葉の中で、知らず知らずのうちに
自由を失ってしまうことがあります。

けれど、名を脱ぐことは、名を否定することではありません。
それはむしろ、いったん愛した名を超えて、
もう一度、新しい形で世界とつながり直す行為です。
古い自分を脱ぎ捨てることは痛みを伴いますが、
そこには必ず、新しい感性と柔らかな皮膚が生まれます。
それはまるで、村上春樹さんの主人公たちが、
喪失や孤独を経て、静かに再生していく姿に似ています。

言葉は、外骨格のように形を与え、
同時に、脱皮を促す力も持っています。
祝福と呪い、定義と解放、形と流動——
それらの間を何度も往復しながら、
私たちはようやく「調和」という呼吸を見つけていくのだと思います。

名を呼ぶこと、名を脱ぐこと。
それはどちらも、世界を愛する行為です。
ただ祝うだけではなく、
ときには言葉を手放し、沈黙の中で世界に触れる。

そして、また新しい言葉で世界を呼び直す。
その繰り返しの中で、
私たちは少しずつ、自分という存在を磨き上げ、
より深く、より広く、調和の中で高まっていくのです。

それは、静かに波紋を広げていくような成長です。
外側へと広がりながら、内側へも深まっていく。
名を持ち、名を超える——その呼吸の往復の中に、
生きるという営みの美しさが宿っています。

【参考文献】
– 村上春樹『ノルウェイの森』(講談社, 1987)
– 村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社, 1985)
– 柳田國男『言霊の幸ふ国』(1939)
– 河合隼雄『村上春樹、そして「聖なるもの」』(新潮選書, 2002)
– 中沢新一『言葉と呪い』(講談社学術文庫, 2008)